「100分de名著」の「[お試し] キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語」をフル動画で配信中!
神話の中の英雄は何者かの召命を受け異世界への冒険の旅へと旅立つ。異世界で英雄はさまざまな試練に直面しながらも、それらを乗り越え大いなる秘宝を得る。最後に英雄は、自らが得たものを携え、さまざまな障害を振り払いながら、現実世界に帰還。その世界に豊かな実りや変化をもたらす。こうしたプロセスが私たちの人生のプロセスと見事に重なり合うという。第一回は私たちは「神話の知恵」から何を受け取ればよいかを考える。
『100分de名著』の動画一覧
本編
修道院に設置された図書館は、さまざまな仕掛けや暗号で守られた迷宮だった。人類の知の宝庫ともいうべき膨大な蔵書の中を巡りながらウィリアムは図書館の謎に挑戦する。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
異端派たちを強引に犯人に仕立て上げる異端審問官ギー。これは当時のイタリアの政治状況を隠喩的に表現したものだ。エーコによる「知と権力の結託」への告発を読み解く。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
ウィリアムはついに図書館の奥へ入るための暗号を解く。秘密の場所へたどりついた彼らを待っていたのは老僧のホルヘ。果たして彼は犯人なのか? 知の落とし穴を読み解く。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
赤毛の少女アン・シャーリー。彼女の手にかかれば、何の変哲もない風景もたちまち宝物に変わってしまう。「歓喜の白路」「輝く湖水」などなど。見慣れたものや場所に、想像力ですてきな名前を与えることで、そこは感動の場となる。最初はあぜんとしていた周囲の人間もいつしか感化され、成長していくのだ。第1回は、想像力の翼を広げて世界を新鮮なものに変えていくアンの姿を通して、人間にとっての想像力の大切さを考える。
アンの大きなコンプレックス「赤毛」。しかしやがてすらりとしたアンの肢体を引き立てる赤褐色になっていく。長所と短所は裏腹なのだ。登場人物たちは誰もがどこかしら欠点をもっている。作者はそんな欠点に対して優しい。それぞれの違いを認め合い尊敬しあう生き方を最終的に描いていくのだ。第2回は、欠点に向き合って生きる人々の姿を通して、異なる個性というものをどのように育み、尊重していけばよいのかを考えていく。
ひょんなことからミス・バリーを激怒させるアンたち。アンはもちまえの「ひたむきさ」で心からの謝罪を行い、逆に深い信頼を勝ちとる。アンは、いかなるときもこの「行動力」と「ひたむきさ」で「偶然の出会い」や「幸運」を自らのものとして運命を切り開いていく。第3回は、アンの「ひたむきな行動」を通して、偶然の出会いのかけがえのなさや、それに気づき生かしていくことで人生を切り開いていく、豊かな知恵を学んでいく。
たび重なる不幸に対してアンがくだした決断は、大学に進学するという夢をあきらめること。地元で教師になることで目が不自由になったマリラを支え、グリーンゲーブルスを守っていくという決断だった。それはあきらめでありながら限りないすがすがしさに満ちている。茂木さんは、それを、与えられた使命を受けとめる「肯定的なあきらめ」だという。第4回は、アンの姿を通して、足元に潜んでいる宝物に気づく方法について考える。
「エチカ」の大きなテーマは、生きていく上で善と悪の区別をどうするかという問題だ。たとえば音楽は、人によって善くも悪くも働くことがある。すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はない。その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だととらえることができる。第1回は、スピノザが再定義した善と悪の見方から、私たちの行為の意味を捉えなおしてみる。
古来ものごとの本質は「形」とされてきた。しかし、スピノザは、本質を「力」とみることでこれまでとは違った見方を提示する。人間もそうした視点でとらえてみると、決められた本質を目指すのではなく、それぞれの特性にあった「力」ののばし方を考えるべきだという発想に変わっていく。第2回は、あらかじめ固定された「形」ではなく、それぞれの環境で独自にのばしうる「力」として本質をとらえるスピノザの人間観に迫る。
人間が自由になるとは、何の制約もなくなることではなくその条件にうまく沿って生きることで活動能力を増大させることだと考えるスピノザは、「自由意志」をも否定する。私たちが一つの行為を選ぶとき、実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化してとらえてしまっているという。第3回は、「自由」や「意志」の本来の意味を、スピノザの視点から照らし出す。
私たちは真理であるかどうかをどう判定すればよいのか。スピノザが提示するのは、数値やデータではなく、「体験」としての認識。他者と共有できなくても、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、科学の一方で、確かにありうるという。第4回は、近代が切り捨ててきた「体験」という知のあり方をスピノザにならって提示し、あらゆるものが数値化、マニュアル化する現代、もうひとつの思考のあり方の可能性を考える。
第1回は、作家ミッチェルの人となりや執筆背景も探りながら、見事な文体やスカーレットの心の変化を通して、「一筋縄ではいかない物語」の謎を読み解いていく。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
第2回は、南北戦争でもたらされた絶望的状況の描写を通して、現代アメリカが抱え込んだ根深い問題や私たちの社会が必然的に抱え込んでしまう闇の部分を照らし出していく。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
第3回は、作者ミッチェル自身の人生とも重ね合わせながら、その文体にも注目し、運命に立ち向かうスカーレットの力強い生き方の「明」と「暗」を浮き彫りにしていく。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
第4回は、運命に翻弄されるスカーレットとバトラーを通して、「本当の心に気づけない悲劇」「絶望の中でも人間を生かしていく力」といった現代に通じるテーマを考える。 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。
大衆は「みんなと同じ」だと感じることに苦痛を覚えないどころかそれを快楽として生きている存在だと分析するオルテガ。彼らは急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、みずからのコミュニティーや足場となる場所を見失い、根なし草のように浮遊を続ける。他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられない大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、やがて自分とは異なる他者を排除し始めるという。大衆社会の本質を考察する。
オルテガは、大衆化に抗して、歴史的な所産である自由主義(リベラリズム)を擁護する。その本質は、野放図に自由だけを追求するものではない。そこには「異なる他者への寛容」が含意されている。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること。「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのだ。オルテガの思想から大衆社会への処方箋を読み解く。
過去や伝統から切り離された民主主義は人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告するオルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだという。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利。死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる国民を支え縛っているのだ。第3回は「死者の民主主義」という視点から民主主義の問題点や限界を究明する。
オルテガは現代人が人間の理性を過信しすぎているという。しかし、どんなに優れた人でもエゴイズムや嫉妬から自由になることはできない。人間は知的にも倫理的にも不完全で過ちや誤びゅうを免れることはできないのだ。こうした人間の不完全性を強調し個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」だがオルテガはその源流につながる。長い時間をかけて培われてきた経験知に学ぶ保守思想の本質を明らかにする。
「三四郎」で描かれる体験は、まだ誕生したばかりの近代小説、それを書き始めた漱石、それと出会った当時の読者、そして、産声をあげたばかりの近代国家・明治日本のとまどいを象徴している。この作品は、そんな三四郎をつい応援してしまう「応援小説」であり、「小説」「読者」「国家」の成長を追体験する絶好の素材でもある。第1回は、「三四郎」という小説から、産声をあげたばかりの日本の「近代」を読み解く。