「100分de名著」の「[お試し] アドラー“人生の意味の心理学” 第1回「人生を変える“逆転の発想”」」をフル動画で配信中!
客観的な世界などなくすべて色眼鏡を通してしかみることはできないという「認知論」。トラウマや過去に支配されているという「原因論」は誤りで、人間は目的を変え過去を意味づけ直すことで人生を変えることができるという「目的論」。「性格」を柔軟なものと捉え、いつでも選び直せると考える「ライフスタイル論」。アドラーの思想はいつでも「この瞬間」から人生を変えることができるというポジティブな人間観に貫かれている。
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本編
ハンセン病療養施設に入所した瞬間、主人公の尾田は絶望的な状況に直面する。看護師たちから向けられる差別的な視線、金銭や衣服を取り上げられるという社会からの隔絶。そして自らの未来を見せつけられるような重症患者たちの苛烈な症状。そんな中で、彼は、自らもハンセン病患者であるにもかかわらず、他の患者たちをさげすんでいる自分に気づき愕然とする。第一回は差別の視線に引き裂かれる主人公の葛藤の意味を深く読み解く。
尾田はなぜか献身的に介護を続ける佐柄木に嫌悪を感じる。夜になり尾田は庭で自殺を試みて失敗するが、その一部始終を佐柄木にみられてしまう。佐柄木は、そんな尾田に「新しい出発をしましょう。それには、まずらいに成り切ることが必要だ」という意味深長な言葉を投げかけるのだった。第二回は、佐柄木という人物が投げかける問いによって「いのちそのもの」に向き合い始める主人公・尾田の心境の変化を見つめる。
絶望的状況を見つめる尾田。その一方で佐柄木は何かを書き続けていた。それは一編の小説。佐柄木は今までになかった人間像を描くといい「新しい思想、新しい眼を持つ時、(中略)再び人間として生き復るのです」と尾田に語りかける。やがて散歩に出かける二人。朝の光の中でこの一夜のことを振り返り「生きてみることだ」と尾田はつぶやくのだった。第三回は、主人公・尾田の再生への旅立ちを見つめる。
北條は世間からはハンセン病作家としてセンセーショナルな受け取られ方しかされない。さらに彼は二つの危機に直面。症状の進行により将来書き続けられなくなるのではないかという危機と、同じ患者たちから反発を受けていたという危機だ。だがその危機の自覚に導かれ、患者の「断種問題」に踏み込んだ傑作が結実する。第四回は、さまざまな危機に直面しながらも、その中で生きる意味を求め続けた北條の姿に迫る。
有名なイエスの「山上の説教」では「悲しむ人たちは幸いである」と説かれ、誰が偉いかを競い合う弟子たちには「幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」と語る。彼の生涯は一貫して「悲しむ人」「小さき人」「蔑まれた人」たちと共にあったのだ。これらの言葉にはあらゆる宗教を貫く神髄があるという。第一回は、イエスの生誕、受洗、最初の説教などを通して、イエスの生涯に込められた深い意味を探る。
五つのパンと二匹の魚で五千人もの男を満腹にさせる奇跡を起こしたイエス。深く読み解けば、人々が食したのはイエスによってもたらされた言葉だととらえることもできる。若松さんは、「永遠の命に至らせる食べ物」と繰り返し表現されるものこそ大いなる働きによってもたらされたコトバであり、魂の糧として人々を生かすものだという。第二回は、奇跡の描写の深い意味を読み解き、生きることを支えてくれるコトバの力を探っていく。
イエスは、力をもってエルサレムの神殿で商いをしている人たちを追い払う。福音書で唯一イエスが暴力を振るう場面だ。「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」。イエスにとって神殿は人間の魂そのものだった。そうとらえると私たちにとって「祈り」という営みが何なのかが浮かびあがってくる。第三回は、イエスが語る祈りやゆるしという営みを通して、人間が最も大切にしなければならないこととは何かを深く考える。
イエスは、ペトロに「鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と語る。自分を裏切るユダに対しても「しようとしていることに取りかかりなさい」と告げイエスは衛兵たちに捕らえられる。イエスはこんなにも弱き弟子たちを愛しゆるしていたのだ。ついにたっ刑に処せられるイエス。彼の最期の言葉の意味とは? そして「復活」という出来事は何を意味するのか? 第四回は、イエスの生涯が現代人に何を問いかけているのかを探る。
最初にショック・ドクトリンが大々的に行われたのは70年代に起こったチリ軍事クーデター。徹底した民衆弾圧で社会全体がショック状態にある中、ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派が乗り込み市場原理主義的な改革を断行。国営企業の民営化、規制の撤廃、貿易自由化でチリの産業経済は外資の餌食に。空前の格差社会が生まれていく。第一回は、世界を席けんしている新自由主義がいかにして生まれたかを検証する。
アジア通貨危機に対し欧米各国が救済に動かない中IMFが重い腰を上げる。だが融資をするための条件として貿易自由化、基幹産業の民営化など厳しい条件を課した。その結果、いずれの国も外資系企業の餌食に。中露も国家が主導して同様の事態を引き起こしていく。弱体化した国々を援助する目的で創設されたIMFや、西側陣営とイデオロギーを異にする大国が積極的に新自由主義政策を導入するのはなぜか。第二回は、その謎に迫る。
ブレマーはイラク戦争後のショック状態を好機として過激な市場開放を断行。そこに米企業が群がった。一方この戦争の発端である米国同時多発テロによりセキュリティー産業バブルが生じ国防の主要機能の急速な外注化が始まる。「コーポラティズム国家」の誕生だ。政府高官は続々とそれら企業に天下り、そこで生まれる利益を欲しいままに。占領下のイラクも米企業に食いものにされていく。第三回は、戦争利権の正体に迫る。
ショック・ドクトリンは被災地の土地をまるごと民間に売り飛ばして高級リゾート開発へつなぐという論理にも応用されていく。だが民衆たちも黙って従っているだけではない。タイでは外資に奪われる前に被災地に「再侵入」。権利を主張しつつ地域ネットワークを使った互助的活動により自力で復興を成し遂げる。第四回は日本の例も交えショック・ドクトリンを逆手にとって民衆たちを覚醒するために利用する方法を模索していく。
相次ぐ不条理に対したとき、林芙美子の中に発動するのは「悪」。「富士山よ!/お前に頭を下げない女がここにひとり立っている」という詩に代表されるように痛快なまでにあっけらかんとした悪罵、怒り、憤り。彼女の言葉は、暗い世相を生き抜く庶民たちの声にならない心の叫びと共鳴することで読者たちをわしづかみしたのである。第一回は、林芙美子の人となりや執筆背景に触れながら、「放浪記」に描かれた「悪の魅力」に迫る。
持ち込まれた原稿を自分の作品として発表する詐欺師的な編集者、愛人を作りながらも嘘をつき金を貢がせる新劇俳優らとんでもない男たち。そんな苦境の中で、女友達と、ある時は励ましの言葉をかけ合い、ある時は生活を共にし、厳しい状況を乗り越えていく。第二回は、「放浪記」を彩る女性群像、男性群像にフォーカスし、その中で浮かび上がってくる「お人好しで嫌われ者」という二面性をもつ林芙美子の魅力を浮き彫りにする。
フランス料理に目もくれず自ら白米を炊き下駄で歩き回る芙美子のパリ生活は痛快だ。しがらみから離れた「旅」が彼女に生きる力を取り戻させる。「食」も芙美子の活力の源だ。「放浪記」続編でも、芙美子の食欲が爆発。おいしいものへのあくなき渇望は、彼女の文学を豊かに彩る。第三回は、「放浪記」に合わせて「下駄で歩いたパリ」等の作品を読み解くことで、林芙美子が「旅」と「食」から何を得たのかを見つめていく。
後半生、プライベートでも型破りで奔放な私生活を送る芙美子。誰もが一目を置く有名作家になっても「成熟」という言葉は芙美子には全く似合わなかった。体の不調をおして「食べ歩き」取材を二軒はしごした夜に心臓発作で亡くなる芙美子。彼女は最期の最期まで「わきまえない」生き方を貫いた。第四回は、「女流文学」という枠にはまることなく、自分を貫き通した痛快な作家人生を振り返る。
家康が歴史の表舞台へと躍り出ることができたのはなぜか。司馬は「たったひとつ、かれが三河に生まれた」ことだと述べる。それはいったいどういう意味なのか? 許諾が得られなかったため、一部映像を編集して配信します。※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
「家康は信長の下請会社の社長にあたる」ととらえる司馬遼太郎。下請会社を維持するためには徹底的に律儀であることを必要とする。それを貫いたのが家康だというのだ。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
家康の名を戦国の世に轟かせた「小牧長久手の戦い」での大勝。10万という秀吉勢に対して、対する家康軍は1万5千。圧倒的不利の中、家康が勝つことができたのはなぜか? ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。
「覇王の家」では意外にもクライマックスといえる「関ヶ原の戦い」「大阪の陣」が一切書かれない。「一度書いたものは二度書かない」という司馬の作家倫理によるものだ。 ※司馬遼太郎の「遼」の字は、本来、「しんにょうの点がふたつ」です。