大河ドラマ 利家とまつ 加賀百万石物語
[お試し] 第27回 夫婦の決心
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天正10年(1582)6月3日、魚津城を落とした利家は信長への不吉な思いをぬぐいきれないまま、京へ向かっていました。道中、村井又兵衛に会い、光秀の謀反と信長の自害を知ります。同じ頃、光秀が毛利に放った使者が秀吉側の陣に捕らえられ、持っていた書状から、秀吉は本能寺の変を知ります。魚津に戻った利家が、信じられない面持ちの柴田勝家や佐々成政に本能寺のことを告げたとき、上杉軍が来襲してきます。
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本編
天正6年(1578)、摂津の荒木村重が謀反を起こします。その制圧のために、利家、佐々成政、不破光治の府中三人衆も出陣しました。この戦に初陣を飾る利家の嫡男・利勝の姿がありました。しかし、一ヶ月たっても留守を守るまつの元には、利勝が初陣を飾ったという知らせは来ませんでした。利勝は、初陣の不安から南蛮寺に通うようになり、人を殺(あや)めることに疑問を持ち始めていたのです。そんな利勝に利家は…。
天正7年(1579)、利家は秀吉から家康の正室・築山と嫡男・信康が、甲斐の武田家に内通しているという噂(うわさ)を聞かされます。それを知った信長は激怒します。家康はまつに二人の命ごいのとりなしを頼もうとします。一方、まつは、乳母・うめとの久しぶりの再会を喜んでいました。そこへ、家康からの使者が到着し、まつは信長への直訴の手紙を甥(おい)・慶次郎に持たせますが、信長の怒りは納まりません。
天正8年(1580)、まつを訪ねた秀吉の正妻・おねは秀吉の浮気に我慢できず、離縁するから養女にもらった豪を返すと言い出します。信長は利家に、秀吉とおねの仲をなんとかしろと命じます。利家は実家に帰っているおねの元へ説得に向かいますが、おねはとりつく島もなく、利家の妻になれば良かったと言い出す始末。そんな時、利家とまつは、信長から呼び出され、利家の嫡男・利勝と信長の娘・永姫の婚儀の旨を伝えられます。
利家は信長から能登21万石を拝領、嫡男・利勝も越前府中を与えられます。能登に移った利家の元に兄・利久と妻・つねが訪ねてきて、利家の力になりたいと申し出ます。利家は快く二人を迎えます。突然、秀吉の正室・おねがまつの元を訪ね、借金を申し込みます。まつは蔵の金をすべておねに貸し与えます。後からそのことを聞かされた利家は、まつに真意を問いただします。その時、夜空に赤い星が現れ、安土の方角に流れて行きます。
天正10年(1582)、甲斐の武田家が滅びます。信長は武田一門を根絶やしにするため残党をかくまった恵林寺を「焼き尽くし、皆殺しにしろ」と命じ、光秀は反対する家康に対し、武田を滅ぼすまでの苦労話を始めます。その得意そうな様子を見た信長は「恩着せがましい」と光秀をけり倒します。5月、信長は自らを神とあがめよと人々に宣言。まつは天の怒りに触れたのではないかと、危ぐを感ぜずにはいられませんでした。
天正10年(1582)5月、明智光秀は連歌の会に出席し、「時は今 雨がしたしる 五月かな」と決意を詠みます。その時、家康は堺の町を見物、秀吉は備中、さらに利家と柴田勝家、佐々成政らは北陸で交戦中。信長の他の有力家臣も誰一人として迅速に動きがとれない状況でした。光秀はこの好機を逃しませんでした。翌日、信長は京で茶会を開くため本能寺に入ります。その茶会の夜、光秀は1万3千の兵を率いて京へ向かい…。
天正10年(1582)6月3日、魚津城を落とした利家は信長への不吉な思いをぬぐいきれないまま、京へ向かっていました。道中、村井又兵衛に会い、光秀の謀反と信長の自害を知ります。同じ頃、光秀が毛利に放った使者が秀吉側の陣に捕らえられ、持っていた書状から、秀吉は本能寺の変を知ります。魚津に戻った利家が、信じられない面持ちの柴田勝家や佐々成政に本能寺のことを告げたとき、上杉軍が来襲してきます。
能登の利家の元へ、行方不明だった嫡男・利勝と妻・永姫が帰還します。利勝は、秀吉が備中から大返しをして光秀を討ったことを知らせます。小丸山城の利家のもとに柴田勝家が訪問してきました。勝家は自分と秀吉とどちらを好きか尋ねます。清須城で、織田家の跡目を決める評定が行われました。秀吉の思惑通りに3歳の三法師(さんぽうし)が織田家を継ぐことに決まりかけたその時、利家がやってきて…。
利家は秀吉の思惑通りに進んだ清須会議の結果に納得できませんでした。利家とまつは、清洲城で弟・良之の妻・ゆうと久しぶりに再会。ゆうは良之の死後、秀吉の側室・茶々の乳母になっていました。そのころ、利家は能登・天平寺の反乱を収めます。利家は、秀吉との対決を決めた柴田勝家から人質を差し出すよう求められます。兄・利久の妻・つねは良之が比叡山で拾ってきた麻阿を差し出せばよいと言い、それを麻阿が聞いてしまい…。
天正10年(1582)初冬、まつは柴田勝家の居城を訪れ、人質に預けた麻阿と久しぶりに対面します。信長の妹・市と幸せに暮らしている勝家の様子に、まつは勝家が秀吉と戦になったら到底、秀吉には勝てないと予感します。京にいた利家は佐々成政に会い、亡き信長の“天下布武”の夢を二人で継ごうと誓い合います。そのころ、まつに秀吉の正妻・おねから手紙が届いていました。秀吉と手を組んで天下を平定しようというのです。
柴田勝家は秀吉と戦うことを決意し、利家は勝家を助けるため出陣の準備を進めます。不破光治、佐久間盛政ら、勝家に味方する武将たちは北ノ庄城に集結。勝家軍2万5千は北近江付近で秀吉軍12万と向かい合います。両軍はお互いにけん制しあっていましたが、盛政が攻撃を仕掛けます。それを知った秀吉は「この戦、勝った」と言い、大垣から半日で駆け戻り参戦、勝家軍は総崩れになります。利家は盛政に加勢しようとしますが…。
賤ヶ岳(しずがたけ)で敗れた利家は越前府中城に退きます。前田軍の撤退を見て、柴田勝家の軍は動揺し総崩れになります。利家は越前府中城で、まつと乳母のうめに会います。そこに勝家がやってきます。利家は陣を立て直してもう一度、秀吉に挑もうと進言しますが、勝家は「秀吉は大きくなった」と秀吉を褒め、秀吉と一緒にこの国を切りもりしろと言い、去っていきました。翌日、秀吉が越前府中城の城門に現れます。
天正11年(1583)、利家は金沢城に入城し、秀吉を迎えます。秀吉は利家に旧領・能登と加賀の二郡を与え、嫡男・利勝には松任(まっとう)4万石を与えます。そこに、佐々成政の妻・はるが佐々家の使者としてやってきます。はるは、黄金を手土産に越中の領土の安どを頼みにきたのです。秀吉は、越中を与えると書状を書いたものの、「書状は成政自身が人質を連れて取りに来い」と告げます。越中に戻ったはるは…。
利家は前田家の又若丸と佐々家のてる姫の縁談をためらっていました。秀吉が、家康との戦に兵を出さなかった佐々成政を許さなかったからです。まつは、秀吉の命令で大坂の秀吉の正室・おねを訪ねますが、千宗易から佐々家とは縁を切れという秀吉の意向が告げられます。しかし、秀吉の母・なかは佐々家との縁談を急ぐよう励まします。又若丸とてる姫との婚約が調いますが、利家は秀吉から再び佐々家とは縁を切れと命じられます。
天正12年(1584)、佐々成政は前田家家臣・奥村家福が守る末森城を攻撃します。利家は末森城を救うため出陣しようとします。そこに、秀吉の使者として石田三成が現れます。三成は「金沢城を一歩も出てはならぬ」という秀吉の命令を伝えます。出陣をためらう利家ですが、まつに諭され出陣します。末森城は落城寸前へと追い込まれていました。家福と家臣たちは利家が来ることを信じ、一刻でも長く城を守ろうとしていました。
天正12年(1584)冬、佐々成政と妻・はるは100人あまりの兵とともに真冬の立山連峰を越えようとします。浜松の徳川家康と会い、味方になってもらおうとしたのです。無謀な雪中行軍の途中で、はるは雪崩に巻き込まれて行方不明になってしまいます。成政はなんとか浜松にたどり着きますが、家康に出兵を断られてしまい…。一方、まつは秀吉の養女となった麻阿と秀吉との間にただならぬものを感じ、不安を覚えます。
利家とまつは大坂城を訪れて娘・麻阿と再会。秀吉の側室になる麻阿との対面は複雑な気持ちでした。天正14年(1586)5月、前田家は上洛(じょうらく)する上杉景勝の接待係となりますが、接待の指導をするために来た石田三成は尊大な態度。利家の甥(おい)・慶次郎は腹をたて、三成をけとばしてしまいます。父親の利久は三成の好物を用意して不始末をわび、三成はそんな利久に好感を持ちます。やがて景勝がやって来ます。
秀吉の母・大政所は人質となり、徳川家康の元にやってきました。家康は大政所からお守りを見せられます。それは、今は亡き家康の正室・築山殿がまつに渡したものでした。心を動かされた家康は秀吉に会う決意をします。そのころ、まつと秀吉の正室・北政所は、佐々成政の妻・はるに似た女がいるという噂(うわさ)を聞き、南蛮寺を訪れます。そこには粗末な身なりで子どもたちの世話をするはるの姿がありました…。
家康からの手紙で、佐々成政が切腹したことを知った利家とまつ。信じられない利家は秀吉の元を訪れ、家康と浅野長吉から事実であると聞かされます。利家は怒って秀吉を探しますが、秀吉の正室・北政所と利家の養女・麻阿から、娘・豪姫の祝言を前に秀吉と仲良くしてほしいと諭されます。成政の妻・はる不在のまま、成政の四十九日が執り行われます。そこに突然、はるが姿をあらわします。はるは成政の手紙を持参しており…。
秀吉の側室・茶々が淀城で棄丸(すてまる)を産みます。しかし、秀吉の正室・北政所のお付きの尼僧・孝蔵主が棄丸を北政所の元に連れて行ってしまいます。秀吉は、棄丸を茶々の元に連れ戻してくれるようにまつに頼みますが、まつは北政所の気持ちを考えるよう秀吉に言い、秀吉の申し入れを断ります。そんなまつに不満を持った秀吉は、前田家が高山右近を引き取った件で言いがかりをつけます。
PV
天正6年(1578)、摂津の荒木村重が謀反を起こします。その制圧のために、利家、佐々成政、不破光治の府中三人衆も出陣しました。この戦に初陣を飾る利家の嫡男・利勝の姿がありました。しかし、一ヶ月たっても留守を守るまつの元には、利勝が初陣を飾ったという知らせは来ませんでした。利勝は、初陣の不安から南蛮寺に通うようになり、人を殺(あや)めることに疑問を持ち始めていたのです。そんな利勝に利家は…。
天正7年(1579)、利家は秀吉から家康の正室・築山と嫡男・信康が、甲斐の武田家に内通しているという噂(うわさ)を聞かされます。それを知った信長は激怒します。家康はまつに二人の命ごいのとりなしを頼もうとします。一方、まつは、乳母・うめとの久しぶりの再会を喜んでいました。そこへ、家康からの使者が到着し、まつは信長への直訴の手紙を甥(おい)・慶次郎に持たせますが、信長の怒りは納まりません。
天正8年(1580)、まつを訪ねた秀吉の正妻・おねは秀吉の浮気に我慢できず、離縁するから養女にもらった豪を返すと言い出します。信長は利家に、秀吉とおねの仲をなんとかしろと命じます。利家は実家に帰っているおねの元へ説得に向かいますが、おねはとりつく島もなく、利家の妻になれば良かったと言い出す始末。そんな時、利家とまつは、信長から呼び出され、利家の嫡男・利勝と信長の娘・永姫の婚儀の旨を伝えられます。
利家は信長から能登21万石を拝領、嫡男・利勝も越前府中を与えられます。能登に移った利家の元に兄・利久と妻・つねが訪ねてきて、利家の力になりたいと申し出ます。利家は快く二人を迎えます。突然、秀吉の正室・おねがまつの元を訪ね、借金を申し込みます。まつは蔵の金をすべておねに貸し与えます。後からそのことを聞かされた利家は、まつに真意を問いただします。その時、夜空に赤い星が現れ、安土の方角に流れて行きます。
天正10年(1582)、甲斐の武田家が滅びます。信長は武田一門を根絶やしにするため残党をかくまった恵林寺を「焼き尽くし、皆殺しにしろ」と命じ、光秀は反対する家康に対し、武田を滅ぼすまでの苦労話を始めます。その得意そうな様子を見た信長は「恩着せがましい」と光秀をけり倒します。5月、信長は自らを神とあがめよと人々に宣言。まつは天の怒りに触れたのではないかと、危ぐを感ぜずにはいられませんでした。
天正10年(1582)5月、明智光秀は連歌の会に出席し、「時は今 雨がしたしる 五月かな」と決意を詠みます。その時、家康は堺の町を見物、秀吉は備中、さらに利家と柴田勝家、佐々成政らは北陸で交戦中。信長の他の有力家臣も誰一人として迅速に動きがとれない状況でした。光秀はこの好機を逃しませんでした。翌日、信長は京で茶会を開くため本能寺に入ります。その茶会の夜、光秀は1万3千の兵を率いて京へ向かい…。
天正10年(1582)6月3日、魚津城を落とした利家は信長への不吉な思いをぬぐいきれないまま、京へ向かっていました。道中、村井又兵衛に会い、光秀の謀反と信長の自害を知ります。同じ頃、光秀が毛利に放った使者が秀吉側の陣に捕らえられ、持っていた書状から、秀吉は本能寺の変を知ります。魚津に戻った利家が、信じられない面持ちの柴田勝家や佐々成政に本能寺のことを告げたとき、上杉軍が来襲してきます。
能登の利家の元へ、行方不明だった嫡男・利勝と妻・永姫が帰還します。利勝は、秀吉が備中から大返しをして光秀を討ったことを知らせます。小丸山城の利家のもとに柴田勝家が訪問してきました。勝家は自分と秀吉とどちらを好きか尋ねます。清須城で、織田家の跡目を決める評定が行われました。秀吉の思惑通りに3歳の三法師(さんぽうし)が織田家を継ぐことに決まりかけたその時、利家がやってきて…。
利家は秀吉の思惑通りに進んだ清須会議の結果に納得できませんでした。利家とまつは、清洲城で弟・良之の妻・ゆうと久しぶりに再会。ゆうは良之の死後、秀吉の側室・茶々の乳母になっていました。そのころ、利家は能登・天平寺の反乱を収めます。利家は、秀吉との対決を決めた柴田勝家から人質を差し出すよう求められます。兄・利久の妻・つねは良之が比叡山で拾ってきた麻阿を差し出せばよいと言い、それを麻阿が聞いてしまい…。
天正10年(1582)初冬、まつは柴田勝家の居城を訪れ、人質に預けた麻阿と久しぶりに対面します。信長の妹・市と幸せに暮らしている勝家の様子に、まつは勝家が秀吉と戦になったら到底、秀吉には勝てないと予感します。京にいた利家は佐々成政に会い、亡き信長の“天下布武”の夢を二人で継ごうと誓い合います。そのころ、まつに秀吉の正妻・おねから手紙が届いていました。秀吉と手を組んで天下を平定しようというのです。
柴田勝家は秀吉と戦うことを決意し、利家は勝家を助けるため出陣の準備を進めます。不破光治、佐久間盛政ら、勝家に味方する武将たちは北ノ庄城に集結。勝家軍2万5千は北近江付近で秀吉軍12万と向かい合います。両軍はお互いにけん制しあっていましたが、盛政が攻撃を仕掛けます。それを知った秀吉は「この戦、勝った」と言い、大垣から半日で駆け戻り参戦、勝家軍は総崩れになります。利家は盛政に加勢しようとしますが…。
賤ヶ岳(しずがたけ)で敗れた利家は越前府中城に退きます。前田軍の撤退を見て、柴田勝家の軍は動揺し総崩れになります。利家は越前府中城で、まつと乳母のうめに会います。そこに勝家がやってきます。利家は陣を立て直してもう一度、秀吉に挑もうと進言しますが、勝家は「秀吉は大きくなった」と秀吉を褒め、秀吉と一緒にこの国を切りもりしろと言い、去っていきました。翌日、秀吉が越前府中城の城門に現れます。
天正11年(1583)、利家は金沢城に入城し、秀吉を迎えます。秀吉は利家に旧領・能登と加賀の二郡を与え、嫡男・利勝には松任(まっとう)4万石を与えます。そこに、佐々成政の妻・はるが佐々家の使者としてやってきます。はるは、黄金を手土産に越中の領土の安どを頼みにきたのです。秀吉は、越中を与えると書状を書いたものの、「書状は成政自身が人質を連れて取りに来い」と告げます。越中に戻ったはるは…。
利家は前田家の又若丸と佐々家のてる姫の縁談をためらっていました。秀吉が、家康との戦に兵を出さなかった佐々成政を許さなかったからです。まつは、秀吉の命令で大坂の秀吉の正室・おねを訪ねますが、千宗易から佐々家とは縁を切れという秀吉の意向が告げられます。しかし、秀吉の母・なかは佐々家との縁談を急ぐよう励まします。又若丸とてる姫との婚約が調いますが、利家は秀吉から再び佐々家とは縁を切れと命じられます。
天正12年(1584)、佐々成政は前田家家臣・奥村家福が守る末森城を攻撃します。利家は末森城を救うため出陣しようとします。そこに、秀吉の使者として石田三成が現れます。三成は「金沢城を一歩も出てはならぬ」という秀吉の命令を伝えます。出陣をためらう利家ですが、まつに諭され出陣します。末森城は落城寸前へと追い込まれていました。家福と家臣たちは利家が来ることを信じ、一刻でも長く城を守ろうとしていました。
天正12年(1584)冬、佐々成政と妻・はるは100人あまりの兵とともに真冬の立山連峰を越えようとします。浜松の徳川家康と会い、味方になってもらおうとしたのです。無謀な雪中行軍の途中で、はるは雪崩に巻き込まれて行方不明になってしまいます。成政はなんとか浜松にたどり着きますが、家康に出兵を断られてしまい…。一方、まつは秀吉の養女となった麻阿と秀吉との間にただならぬものを感じ、不安を覚えます。
利家とまつは大坂城を訪れて娘・麻阿と再会。秀吉の側室になる麻阿との対面は複雑な気持ちでした。天正14年(1586)5月、前田家は上洛(じょうらく)する上杉景勝の接待係となりますが、接待の指導をするために来た石田三成は尊大な態度。利家の甥(おい)・慶次郎は腹をたて、三成をけとばしてしまいます。父親の利久は三成の好物を用意して不始末をわび、三成はそんな利久に好感を持ちます。やがて景勝がやって来ます。
秀吉の母・大政所は人質となり、徳川家康の元にやってきました。家康は大政所からお守りを見せられます。それは、今は亡き家康の正室・築山殿がまつに渡したものでした。心を動かされた家康は秀吉に会う決意をします。そのころ、まつと秀吉の正室・北政所は、佐々成政の妻・はるに似た女がいるという噂(うわさ)を聞き、南蛮寺を訪れます。そこには粗末な身なりで子どもたちの世話をするはるの姿がありました…。
家康からの手紙で、佐々成政が切腹したことを知った利家とまつ。信じられない利家は秀吉の元を訪れ、家康と浅野長吉から事実であると聞かされます。利家は怒って秀吉を探しますが、秀吉の正室・北政所と利家の養女・麻阿から、娘・豪姫の祝言を前に秀吉と仲良くしてほしいと諭されます。成政の妻・はる不在のまま、成政の四十九日が執り行われます。そこに突然、はるが姿をあらわします。はるは成政の手紙を持参しており…。
秀吉の側室・茶々が淀城で棄丸(すてまる)を産みます。しかし、秀吉の正室・北政所のお付きの尼僧・孝蔵主が棄丸を北政所の元に連れて行ってしまいます。秀吉は、棄丸を茶々の元に連れ戻してくれるようにまつに頼みますが、まつは北政所の気持ちを考えるよう秀吉に言い、秀吉の申し入れを断ります。そんなまつに不満を持った秀吉は、前田家が高山右近を引き取った件で言いがかりをつけます。